那須基線
近代国家を目ざした明治新政府は、国土の近代的測量をお雇い外人の指導で始めることになった。明治8年(1875)には、イギリス人のマクウェンやヘンリー・シャボーの指導のもとに関東地方の測量(関八州大三角測量)が着手された。
この測量には、平地の2地点を結ぶ直線(基線)を設け、その長さを極めて精密に測量する必要があった。
この一帯は、江戸時代から明治10年代(1880年前後)にかけて、那須野ヶ原と呼ばれる平坦な原っぱであった。そこで、この地が相模原(神奈川県)と共に基線測量の場に選ばれた。那須野ヶ原における基線(那須基線)のあらましは、次の通りである。
@ 那須基線北点 西那須野町千本松
A 那須基線南点 大田原市実取
B 測量の時期 明治11年4月9日〜6月11日
C 2点間の距離 1万628.310589メートル
当初、観象台には木のヤグラが組んであり、明治10年代の開拓や那須疎水測量の際のかっこうな目標物となり、人々に親しまれた。
基線測量(大三角測量)は内務省地理局から陸軍参謀本部へ移管されるまでの事業で、その後全国三角測量時(現・一等三角測量網)に那須基線は採用されなかった。
内務省時代の三角点(原三角点)は陸軍参謀本部により殆ど抜き去られたが、幾つかが発掘されている。
那須基線・南端
観象台 (大田原市実取) 平成12年1月復元工事完了。市文化財への指定準備中
発掘された「南端点」は上部の蓋と蓋を支える石積み(石室)部分が壊れ金属製の指標部分は無くなっていたが、大田原市教育委員会が復元工事を行った
たて道
那須基線の測量後、北点観象台と南点観象台を結んで開拓道路がつくられ「たて道」と呼ばれた。現在はライスラインの一部となっている。約10kmがほぼ直線に結ばれている。
那須基線・北端
史跡 観象台 (西那須野町千本松716-1)
町指定文化財 (昭和47年12月1日指定)所有者:農水省草地試験場
この塚は、草地試験場の前身である馬事研究所が開設されるにあたり観象台跡が用地内に取り入れられる際、西那須野町と千本松農場の立会いで発掘され、旧態に復元されたたものである
明治初年の我が国における、近代的三角測量の貴重な遺跡である。
なお、塚の脇の水準標は50メートルほど南東にあったものを同じ場所に移動したものである。
几号(きごう)水準点
那須基線の位置に標高を与えるために設けられた水準点で、東京-塩竃間の水準測量用いられたといわれている
不の文字の横棒が標高点
このような完璧な標石は少なく、多くは神社の石柱や建物や鳥居などに刻まれている