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関東ふれあいの道A
晃石山・太平山
  

2013/7/20

 晃石山・太平山
      ―首都圏自然歩道・関東ふれあいの道 栃木県―

                               平野 彰

 平成25年7月20日 今回は1月の首都圏自然歩道関東ふれあいの道、栃木県25番目の「稜線をたどるみち」を歩くことになった。天気は高曇りでこのところの暑さ続きからはやや涼しい感じだ。
 10時48分近藤善則、今井秀正、高田容子、平野彰の4名がJR両毛線岩舟駅へ集合、出発間際に川口章子がタクシーで到着。総勢5名のメンバーだ。近くに見える岩船山は、江戸時代から始まった岩舟石の採掘と3.11の地震で山体が変わってしまい、残念ながら舟形のイメージとは程遠い感じだ。山頂にある高勝寺は一大霊場として信仰を集めているとのこと。

 暫く線路沿いの舗装道路を東に向かい、さらに緩い坂道を北上すると,10時30分鷲神社に到着。桃山時代の建立で天日鷲命(あめのひわしのみこと)が祭神とのこと。道路反対側にある、ため池は水が涸れ、ゴミ捨て場のような底をさらけ出していた。この池の北側に地図には無い山道があり、女性が一人あっという間に追い越して行った。雑木林の中は涼しげで、10分ほど進み、車道を横断し本来の登山道に入る。樹林のなか、急な丸太の階段が延々と続いていた。11時50分馬不入山(346.3b)に着く、数人の先客あり。ベンチの前の三等三角点は上部が欠けていて、誰の補修かセメントで三等の文字までうめられている。ここで大きめのヤマユリを眺めながら早めの昼食をとる。

 休憩後あまり展望もない道をひたすら登る。12時50分桜峠到着。よく手入れされた東屋には先客5、6人が休憩していた。この辺りには山桜の自然林が広がり、そこから桜峠と呼ばれるようになったらしい。道の傍らにあった案内板には、晃石山と馬不入山の間にある峠で表東山道と裏東山道の連絡路。昔は岩舟や葛生方面からの大切な道。また皆川城が上杉勢に攻められ落城の際、一人の武士が荷物を桜峠の繁みに埋めたが、その後里人では金の鹿の置物を埋めたといった民話も記入されていた。

 地元の男性が我々に、この峠は弘法大師、伝教大師など古来名僧高僧の往来もあった、 地元では最近は桜の植林を進めているなどと説明をしてくれた。
 程なく晃石山の方にヘリの音が聞こえてきた。中年の男性が倒れていたとのことなので、其の救助に飛来したようだ。 晃石山への登り道は間に手すりのある急な石段が直線状に続く、窪地で両側の樹林のため展望も風もない道をひたすら登るのみ。ヘリの音が増々近くなり、石段が終わり、歩きやすくなったところで、漸く晃石神社(14時)へ着いた。ヘリは男性を収容し飛び去った後だったが先行の今井さんが、其のヘリをカメラにおさめていた。栃木消防署からの救助隊員十数名も間もなく下山していった。
 この神社は山岳信仰のもとに建てられたが、当時ここに鏡石(神石)があり、日夜恍々(こうこう)と輝いていたことにより、綾都比之神(あやとひのかみ)として敬われたとのこと。神社と鳥居の間は一寸した広場で、中央付近に大きな岩があるが、これが鏡石なのかは不明だ。社殿の裏側を登ること10分ほどで、晃石山山頂に着いた。

 奥宮の前の三角点は一等本点だが、下山後にネットで調べた資料では、「関八州大三角測量」及び「大三角測量」は明治11年から15年の5年間45点が竣工した。晃石山標石は「明治13年 内務省地理局」「全国原三角点」「東経三十九度四十五分五十三秒北緯三十六度二十一分三十五秒」と刻字のある載頭方錐形標石が設置された。その後参謀本部陸地測量部により明治35年12月27日に再設置された。その際元の標石は西の谷に転げ落ちていったとのこと。晃石山標石は内務省地理局による我が国の本格的地図測量開始時の証しある。「戴頭方錐形」「全国原三角点」「経緯度の記載」と刻字のものは特に測量史上の意義は大きいということである

 ここから太平山までは緩い下りで、攣りそうな足にとってはありがたい道だ。
 今回のコースは全体的に展望があまりよくなかったが、天候によっては、遠く富士山から、日光連山、筑波山まで見えるそうだ。晃石山と太平神社のちょうど中間に、大中寺への分岐道があり、そこのベンチで小休止。栃木の町並を眼下見ながら、なぜか太平山の頂上をまいて、神社直行となった。15時30分太平神社到着。山の中とは思えぬほど広い境内を有する。

 天長4年(827年) 慈覚大師の創建といわれる。ここまで無事だったことへの御礼をこめ参拝を済ませると、ここからは長い石段の下りだ。朱塗りの随神門をくぐりさらに石段を下ると、石畳みのあじさい坂。さらに右側には複雑な瓦屋根の連祥院六角堂がある。幕末水戸藩の天狗党が、太平神社に立てこもり、のち筑波山に引き上げたあとも、一部過激派がこの連祥院を宿舎として、軍資金拠出に応じない住民を惨殺しさらに、栃木町を焼打ち、町の大半が焼け落ちてしまった。
 16時20分国学院栃木短大前のバス停着。すでにバス待ちの学生ら数十人が列をつくっていた。途中で仕入れた缶ビールでのどを潤し待つこと10分程、到着したバスの運転手が真っ先に我々を載せてくれたのは意外だった。
 栃木市内を流れる巴波川(うずまがわ)河畔に建つ豪商の蔵屋敷を過ぎると間もなく、栃木駅に到着。
 居酒屋の開店時間には少し早かったが一軒のみ駅舎の中の漁民が、開いていて、時間の経過を忘れるほど会話の盛り上がった打ち上げとなった。

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